花の香が風に混じる。
それが昨日木更が淹れてくれたお茶の匂いと同じだと分かって、くるりと城之内は風上を振り返っ
た。
案外、この近くで摘んで作ったのかもしれない。
館から少し離れた場所を歩きながら城之内は思う。
先日、突然に異世界へと連れてこられてから、一夜が明けていた。整理のつかない気持ちのままに、
散歩を決め込んで、露の散った柔らかな緑を踏みしめる。
陽は、まだ中天にも届いていない。早朝よりは幾分暖かさを増した風が、城之内の金糸を弄ってい
った。
「・・・・・・」
巡らした視線の先には、花の影は見えなかった。
なだらかな丘へと続く横合いの道に、低い木が植わっている。木が低いせいかその向こうに川があ
るのが見えて、城之内はその方向へと足を向けた。
ちょうど、花の香が流れてくるのもその方角だ。
昼の陽射しを花の香と共に吸い込む。自分以外は誰もいない。
木更が話をつけてくれたのか、マナ
のような女仙(にょせん)(つまり、彼女たちも不老不死だ)がたくさんいると聞いた割には、こ
こまで誰にも会わなかった。
今はまだ、誰とも会いたくないというのが本音だったので、それは大変に嬉しい。
彼女たちが麒麟を世話するためだけに存在していると聞き、麒麟を大切に思っていると昨日のマナ
の態度から分かっても、今は顔を合わせずらかった。何せ、城之内はまだ答えを出していない。
本当に、ここに残るのかどうか。
だから、城之内の他には誰もいない。見た目だけなら。
ほどなく川べりについたところで、城之内は口を開いた。
「木更」
呼ぶと、気配が近くに現れる。
突然現れた気配にも驚くことなく、城之内は現れた存在を振り返った。
どうやら、木更は城之内の影の中に隠れることができるらしく、一人で気分転換がしたいと言った
彼に対してもそれを理由に付いていくことを承諾させた。
勝手が分からないだろうということと、
影に隠れれば完全に気配を消せるということで、城之内はその申し出を快く受け入れたのだ。
困惑と心配が混ざった顔で顔を覗き込まれて、城之内はその口元に明るい笑みを浮かべた。
よっこいせ、とその場に腰を下ろし、素足をさらして水に足を浸す。
冷たい水の感触に目を細めた。
「やっぱさ、まだ決心つかないんだ」
水面を見つめたままの言葉に沈黙が返る。
陽光が水面を照らしている。反射した光が、肩口で揺れる金糸に幾何学に似た光の模様を描いた。
髪の端は光に透けて、まるでそのまま陽光に溶けそうに見える。
「すぐに決める必要はない、と・・・」
「ああ、聞いたぜ?」
反射する光が眩しいのか、城之内は目を閉じる。ただ、足だけはじっとしておらず、振り上げるの
に合わせて水がパシャリと音を立てた。
花の香がまた強くなる。
風が吹いたのと同時だったから、近くに咲いているのかもしれなかった。
目を開ければ、足のすぐ横を薄桃色の花弁がいくらか流れていったのが見えただろうが、残念なが
ら城之内は目を閉じたままだったので、通り過ぎる香りだけを堪能していた。
昨日、悩む城之内に木更は言った。
もしかしたら、ただ決断の時を先延ばしにすることにしかならないかもしれないけれど、と前置き
して。
『城之内様、この山は十二の国の中心にあります。そして、麒麟は全てこの場所で生まれ、王を決
めるまではこの場所に留まるのです』
留まる?それでどうやって王を探すのかと聞いた城之内に、木更は続けた。
『麒麟が生まれると、その国のものがこの場所まで来て、その中から麒麟に王を選んでもらうので
す。
ここに来られるのは年に二回。麒麟以外は誰が王かは分かりませんから、ここに来た者の中に
必ずしも王がいるとは限りません。そうするとまた次の期日に、他の者達がやってきます』
『・・・王が選ばれるまで?』
『そうです』
『だって、王がいないと国は荒廃するんだろう?そんなのんびりと・・・っ』
『ええ、ですから、稀に待ちきれずに麒麟自身がその国へ王を探しに行ってしまうこともあります
が・・・大抵は、この場所で待つものです。
国が荒廃するといっても、すぐにどうにかなるわけではありませんから』
『・・・・・・』
『城之内様の場合、国の民達がこの場に来るまで、あと四月あります』
『四月・・・?』
『はい。初めて門が開くまで二月。ここに来るまでに二月。全部で四月です』
『門・・・?』
『はい。この山を蓬山といい、その周りを黄海という名の森が囲っています。
更にその周りは城壁が築かれ、そこの門が開かぬ限り、誰もこの地へと足を踏み入ることは出来ま
せん』
木更は少し時間を空けて、それからもう一度口を開いた。
『だから、まだ、考える時間はありますよ』
城之内は目を開いた。
花の香は相変わらず城之内の鼻を擽って、木更は先ほどと同じように、ただ城之内の後ろに佇んで
いるらしかった。
まだ時間はある、と。そう言われても、分かっていた。
「きっと、選ばなくちゃいけないんだろうけどさ」
どちらを、とは言わない。けれど、その言い方から、どちらを指すのかは用意に想像がついた。
「俺、すっげぇ大切な人たちがいるんだよ」
唐突とも言える話題を、城之内が振った。
瞳には、喜びと、悲しみとそのほか多くの感情が混ざり合って、緋の指す琥珀の色合いを一層深め
ていた。
こうなると分かっていれば、もっと昔に、自分の愚かさに気づくべきだった。
自分は何ヶ月か前ま
でかなり荒れていて、ようやく、本当の友達と呼べるものに出会ったばかりだったのだ。
かけがえのない友人達に、救ってもらった。
彼らは自分を闇の世界から救い出してくれて、さ
らに光を与えてくれた。
本当は、もらった光をゆっくり返していきたかったのだ。
自分が貰ったそれを、ではなく、自分で新たに作り出して。まだ、時間は充分にあるはずだった。
その前から、確かに体調に異変はあったのだけど、それからの生活がただ楽しくて、だから全てを耐
えることが出来たのだと思う。
結局返せないかもしれないと思うと、なんだか鼻の奥がつんとした。
胸にこごった氷の塊を、柔らかな風に溶かすようにゆっくりと吐き出す。
「凄く、大事なんだ。友達と、家族・・・まぁ俺の妹だけどさ」
妹、と言う時に僅かに声が翳った。本当には、血が繋がらないのだと分かってしまったからかもし
れない。けれど城之内は胸を張って、彼女、静香を妹だと思うことにした。
例え血が繋がっていなくても、互いが築いてきた時間がなくなる訳ではない。
「まぁ、一部滅茶苦茶むかつく奴もいるんだけどよ。でも、あの場所はやっぱり自分の場所だった
んだと、思う」
今でも、思ってる。
決して、ただ流されたというだけでなく、自分がただ知らなかっただけだとしても、彼らは自分を
迎え入れてくれた。
あの場所に自分は居場所を求めて、そうしてきっと、彼らは今でも自分のことを待ってる。
「はい」
木更は静かに、そう返事を返した。それは昨日のように悲しげではなくて、嬉しそうに響いた気が
して、思わず城之内は振り返った。
「木更・・・?」
「本当に、城之内様を想ってくださっていたのだと、私も思います」
彼の真っ直ぐさ。
闇を知りながらも光の中を生きることを選べる彼は本当に眩しくて、それを心から大切に思ってい
た者達もいただろう。
そうして、そんな風に彼を慈しんで支えてくれた者がいたから、今の彼があるのだと、木更には分
かった。
「城之内様、私はこの17年間、あなたを見つけることが出来ませんでした」
「・・・・・・」
それが、自分にとっていいことだったのか悪いことだったのか判断がつかずに、城之内は黙り込ん
だ。実際のところ、これで良かったのかもしれないと思っている。
木更が迎えに来てくれたとき、確かに城之内は限界だった。逆に言えば限界まであの地に留まるこ
とが出来たからこそ、彼らと出会えることが出来たのだと思ったのだ。
そう思えるほど、今までの生活に後悔はしていなかった。
木更は続ける。
「初めの数年間、あなたの気配は弱弱しく、だから見つけられないのだと思いました。
それでも探し続け、ここ三年ほどは同じ場所を探しながらも、城之内様の気配を全く感じることが
出来ませんでした」
それの何がおかしいのだろうと城之内は首を傾げた。木更の言い方は、何か含みがありそうで、で
も城之内にはそれが何か分からなかった。
木更は続ける。その声には、喜びがあった。
「けれど城之内様、この前、あなたを見つけた時、私は遠くからでもすぐにあなたを感じることが
出来たのです。三年前、全く気付かなかったのと同じ場所だというのに。
・・・なぜだか分かりますか?」
瞳が、まるで愛する子の成長を見守るように、慈しみの光を湛えていた。そして、喜びを。
その時の感動をもう一度目の当たりにしたように、木更は目を閉じた。
そうして、静かに口を開く。
「あなたが、光を取り戻したからですよ」
木更は、本当に嬉しそうに笑った。
「あなたはこの上もなく、瘴気に侵されていました。日本にいること、それ自体が麒麟にとっては
毒なのです。あなたは取り分け負の気配に晒されていました。
人の悪意、血、闇、全てに。そしてその瘴気が、私の探していたあなたの光を隠してしまっていた。
けれど、私が見つけた時のあなたは見違えるように輝いていた。
身体は限界だったはずなのに、です」
だから見つけることができたのだと、木更は続けた。
「光・・・」
光、それは・・・
城之内の呟きに、木更は強く頷いた。
「そうです。お友達に、もらったのですね」
その、光を。
そうして、彼本来の光を取り戻してくれた。
「アイツらが・・・?」
ポロリと、城之内の頬を涙が伝った。彼自身は気付いていないのかもしれない。
木更は黙っていた。ただ、一つ頷いただけだった。
「ですから、彼らの元に留まろうとなさるあなたを、私はお止めいたしません」
それが、どれだけ国を荒廃させようと。彼自身の命を縮めようと。
それが彼の望みならば。
なぜなら、本当の意味で彼を救ったのは、彼の仲間たちだったのだから。
自分にとって城之内が光なら、城之内自身にとって、彼らは光だった。
そしてきっと、彼らにとっても、城之内はすでに光になりえているに違いなかった。
けれど、城之内は小さく口を開いた。
望みを、捨てるはずの言葉を。
「じゃぁ、駄目だな」
城之内は僅かな自嘲と、悲しみと、それでも嬉しそうな声で呟いた。
「ここで俺がアイツ等に逃げたら、俺は俺自身を許せねぇもん」
だから、戻ることは出来ないのだ、と。
涙が、また頬を伝わる。
零れて、それは水面に小さな波紋を描いた。
「あいつ等は、俺の誇りだから。俺も、あいつ等の誇りでありたいから」
もう会えないのだと、思っていても。
彼らは、自分の一部だったのだ。
「本当に、あいつらが好きだよ」
ずっと、そう思っていた。
伝える機会などなくて、でも時間だけはあると思ってた。
だから、気にしなかった。
でも。
思い出すと、止まらなくなる。
大切な、本当に大切な仲間だったのだ。
ずっと側にいて、背中を預けることの出来た本田。
自分を叱咤しながらも、いつでも見守り、信じていてくれた杏子。
共に戦いの舞台に立ちながらも、励ましてくれた舞。
いつでも自分を見つめていてくれて、勇気をくれた静香。
平然と凄いことを言って、でも自分達のために命すらかけてくれた獏良。
面倒くさそうな態度を取りながらも結局は協力してくれる、優しかった御伽。
今まで関わってきたデュエリスト達。
貶され、自分はそれに歯向かってばかりいたけれども、認めるだけの強さを持っていた海馬。
海馬なんて、こんな時に思い出したくもない顔だったはずなのに、思い出したら自然に笑顔が零れ
た。
そして。
そして―――――。
俺に、もう一度光を与えてくれた、遊戯と、もう一人の遊戯。
大好きだ、と言ってくれた。
自分も、彼らが大好きだった。
「城之内様・・・」
綺麗な、涙は止まることもない。キラキラと光に反射して、まるで宝石のようだと思った。
きっと、それよりも綺麗なのだろうけど。
「俺は、ここでやらなくちゃいけないことがあるから。だから、向こうには戻らない」
「・・・・・・」
木更は、ただ黙っていた。
その綺麗な涙に、答える術など持っていなかった。
ただ、綺麗だと
―――――その高潔な魂を想って、天帝ではなく、見ることの適わなかった彼の友人達に、
感謝していた。

back/next