日常の、ほんの一コマのはずだった。
笑って別れた笑顔。
友人の声。
なのに。
帰り道の途中、急に襲ったのは、眩暈。
その結果もどこかで分かっていた。そろそろ限界だと思っていたから。
ただ、違ったのは。
薄れる意識の中、突風とも言えるほど強い風が、自分を包んだこと。
それがなぜか懐かしくて。
深く深く意識が沈む間際に。
―――――誰かが、呼んだような気がした。
「・・・・・・ここ、どこだ?」
城之内は唖然としたまま、周りを見回した。
驚くのも無理はないと思う。何しろ、目覚めたら全く覚えのない場所にいたのだから。
一体、何があった?
目覚めた瞬間、何かの気配が外へと向かった気がしたが、自分が異変を感じたのはそれだけだ。
自分がここにいることの理由にはならない。
どこかの、部屋だということは分かる。けれど、日常からは想像できない造りであることは間違い
なかった。
広さは20畳くらいだろうか。石の床と、壁、そして硝子の入っていない大きな窓。
柱がある割には、部屋を区切るものが衝立代わりの布しかなく、うっすらと向こう側が透けるその
布が、外からの風に波打っていた。
同じような布が、部屋を仕切るように一面だけ存在する壁を抜かして幾枚も垂れ下がっている。
片面にだけある石の壁は、どうやら元からの岩場をそのまま部屋の分だけくりぬいてあるようで、
床と壁、天井が完全に繋がっていて切れ目がない。
もちろん城之内に、そんな部屋が見覚えのあるはずがなかった。
「・・・・・・」
誰かを呼ぼうとしてみるが、自分以外に気配はない。
仕方なく、城之内は寝かされていた寝台から足を下ろした。そうして、自分の格好に気が付く。
「・・・浴衣、じゃないよなぁ?」
彼の言った浴衣とは、所謂旅館にあるようなやつであったが、それが真っ白になっただけで、表現
上は間違っていない。
城之内には分からなかったが、実際は浴衣よりも長襦袢に近いものだったろう。
彼が横になっていた寝台は、ベッドのようなそれと違ってスプリングがなく、薄い布団のしたの台
はよく見れば巨大な石から出来ているように見えた。
寝台の隣りには小さな円卓があり、上には水差しとコップ、同じように置かれた籠の中には桃が入
っていた。
ますます、城之内の頭に「?」マークが増えていく。
自分は一体どうしたのだろうか。
寝相が悪かったのか大分着崩れた着物を掻き合わせた時、俄か(にわか)に部屋の外が騒がしくな
った。
「何だ・・・?」
「景麒・・・っ!!!」
突然、小柄な少女が部屋へと飛び込んできた。感極まったように涙すら浮かべる彼女に、城之内は
困惑しながらも問い返す。
「は?ケーキ??」
随分と、おいしそうな言葉だ。思わず城之内はお腹に手を当ててしまった。
「あなたのことですよ」
少女の後ろから別の女性の声がかかる。城之内はその方向へ視線を向けて、これ以上ないくらいに
目を見開いた。
「な・・・っ」
当たり前だ。目の前にいたのは、明らかに人ではなかった。
白い肌に、青みがかったミルク色の髪。空の色を薄めたような淡い青色の瞳が、優しげに城之内を
見つめる。
柔らかな笑顔を浮かべる顔も、曲線を描く上半身も女性そのものだったが、首と手首は青白い鱗に
覆われ、本来耳のある場所からは魚の背びれのようなものが生えていた。
布に隠れてほとんど見えないが、僅かに覗く下腹部や腰の位置にも首筋と同じ鱗が覗いている。
さらには、鱗で途切れた手首の上から二の腕までを羽毛のようなもので覆われていて、それを人と
判別する方がおかしかっただろう。
けれど、不思議と怖いとは思わなかった。どことなく懐かしい気すらして、城之内は本気で戸惑う。
その横で、少女が嬉しそうな声を上げた。
「木更が、景麒が目覚めたことを教えてくれたんです!あぁ、長いことこの場所を離れてお辛かっ
たでしょう!もう大丈夫ですよ!!」
「キサラ・・・?」
「ここにいる女怪(にょかい)のことです!」
城之内と話せるのが嬉しいのか、少女はにこにこと言葉を返す。
木更が苦笑しながら少女に声をかけた。
「少し落ち着きなさい、真那(マナ)」
「木更、分かってるけど・・・」
「なら、良いでしょう?時間はたっぷりありますよ」
木更(きさら)と呼ばれたのは人ではない、目の前の女性のことらしい。困惑も露に固まる城之内
に、木更は優しく微笑んだ。
「説明は後ほど致します。取りあえず、お食事はいかがですか?」
**********
「ええっと、つまり俺は日本人じゃなかったってことか??」
菜食料理で腹を満たし、デザートの桃を口にしながら城之内は口を開いた。
先ほど、食事に連れ出されながら、自分のいる場所が日本ではなく、また、自分はこの国に本来あ
るべきだったと説明されて、城之内は混乱する思考に取り敢えずの回答を与えようと、そう口にし
てみたのだ。
他に選択肢がなかったとはいえ、意外と高い順応性である。
だからと言って、口にしてみたところでしっくりくる訳はなかったが、それを全部否定するには、
自分の今いる環境が違いすぎる。
まずは当然木更の存在で、城之内は今まで幽霊は信じていても(そしてかなり怖がっていたが)妖
怪は信じていなかった。
なのに、彼女は確かに存在して、そして目の前で微笑んでいる。
女怪、というのは妖怪とはまた違うらしいのだが、見た目の印象としてはそれに近い。醜悪、では
なく、異常なのだ。
物語にのみ出てくるようなその容姿は、敢えて言うなら、人と竜と鳥を混ぜた
ような感じだろうか。
けれど、怖いという感じはしない。優しそうな薄青の瞳と穏やかで優しい声
を聞いていると、不思議と心が落ち着いた。
そしてもう一つの変化が、城之内を「日本人」ではないと知らしめていた。
着替えて食堂に出る前、顔を洗うように、と差し出された桶の中の水鏡に映った自分の顔を見て、
城之内は悲鳴を上げたのだ。
「な、なんじゃこりゃぁあああッ!!!」
「け、景麒・・・?」
桶を差し出したマナは不思議そうに城之内を見返した。
何せ彼は水鏡に映った自身を認めた途端、悲鳴を上げて自分の頬を抓ったり、髪をひっぱったりし
ていたのだ。
それを暫く繰り返した後、取りあえず、手で水を掬って化粧でも落とそうとしているかのように乱
暴に何度も顔をゆすいでいたが、それで結果が変わるわけではなかったらしく、城之内は愕然とし
た声を上げた。
「これっ、俺じゃねぇ!!!」
再び叫んだ城之内に、マナは不安そうに木更を振り返った。
彼女は動じた様子もなく、乾いた布を城之内に差し出す。
「どんな風に、お変わりになりました?」
「どんなって・・・!だって、髪の色と目の色が違・・・ッ!!」
城之内は、性格に似合わずに色白だった。小さい頃からよく外で遊びまわり、太陽に当たってもい
たのだが色はほとんど変わらない。
色素が薄いのか、染めてもいないのに髪の毛は金茶色で、瞳の色も茶色、というよりは琥珀色に近
かった。
けれど、ここまでではなかったはずだ。
現在の髪の色は、完璧に金色だった。太陽の光をそのまま固めたような、鮮やかな金髪。
肌の色はさらに白くなり、全体の印象からか、随分と柔和で線が細くなったような印象を受けた。
瞳の色もさらに薄まって、琥珀色に僅かに朱を溶かし込んだ色に変わっている。
よく見れば髪の長さが僅かに長くなっていて、城之内はますます混乱した。
そこで、言われたのだ。
何を当然、とした顔のマナに。
「それは、こちらの世界にお戻りになったからです。それが本来の姿なのですよ」
――――――と。
そんな事実を多々目の当たりにした訳で、城之内は彼女たちの話を聞かない訳にはいかなかったの
である。
「日本人、ではありませんね」
木更の回答に、城之内は溜息を着きつつも答えが得られた、と安堵しながら桃に大きくかじりつい
た。
半分、やけになっているのかもしれない。
そこへ、お茶を入れていたマナが口を出した。
「厳密には、人ではなく、麒麟(きりん)です」
ぶーーーーっ!!
城之内は咀嚼しかけた桃を盛大に噴出す。
「き、きりん!!??あの首の長い!?」
「はい?」
マナが不思議そうに城之内を見た。いや、聞きたいのはこっちなのだが。
「いや、今キリンって・・・っ!!」
「えぇ、そうです。景麒(けいき)は慶(けい)の麒麟ですよ」
「??????」
二人のやり取りを聞いていた木更が小さく噴出した。二人の目が、木更へと向かう。
「マナ、景麒はこの国のことを何一つ知らないのですよ。その説明じゃ何も分かりません」
言われたマナはあっと驚いた顔をして、ついで恥ずかしそうに城之内に謝った。
城之内は訝しげに木更を見やる。気付いた木更が視線で話を促して、城之内は戸惑いながらも疑問
をそのまま口にした。
「景麒って?」
先ほどから、この二人は自分のことをそう呼ぶ。
自分がこの国の者だといわれたことも驚きなのに、会ったことのないはずの二人が当然のように城
之内を知っていて、その名で呼ぶことに、ずっと違和感を感じていた。
「あなたのことです」
木更はふわりと笑みを浮かべる。それがとても嬉しそうに見えて、問いかけた城之内はそのまま口
を噤んだ。
「この国、という言い方をしたから混乱したのでしょうけど、ここはあなたのいた世界とは違いま
す」
「別世界ってことか?」
「そう、捕えてくださって構いません。あなたの世界でいう、日本国と中国に面した世界です」
「間にあるってことか・・・?」
「それとは違います。厳密には面しているのとも違いますが、説明できるものではないので、雰囲
気だけ掴んでください」
「・・・・・・」
「あなたは、本当はこの国に生まれるはずでした」
「どうして分かるんだ?」
「この国では、人も、麒麟も、動物でさえ木から生まれます」
「は、ぁ!!??」
城之内が目を見開く。琥珀色の瞳にまじまじと見つめられて、木更は苦笑した。
「正確には木に、実るのです。卵の果と書いて「卵果」といい、それぞれの里木(りぼく)に卵は
実ります。
麒麟、というのはあなたの想像とは違いますが、あなたの世界で言うところの、馬と鹿の中間のよ
うな姿をしています。
この世界の誰よりも足が速く、空を駆けることもできます。動物
というよりは聖獣と言えば分かりますか?」
「それが、俺だって?」
自分を指しながらも、訝しげに城之内は眉を寄せる。
「はい。あなたはまだ卵果の状態で、日本に流されました」
「・・・・・・」
「本来、こちらとそちらを行き来することは出来ません。
こちらからそちらへ行くことができるのは卵果の状態のみ。その状態で流された実は、その国の女
性の胎内に流れ着きます。そうして、人の姿で生まれます。
けれどそれは、そちらの世界での仮の姿」
「だから、俺の容姿が変わったってのか!!??本来は・・・動物の姿だって?」
苦虫を咬んだように、城之内の眉が眇められた。到底信じられる話ではない。
それが例え、変わった己の姿を見た後であっても。
「ええ。けれど麒麟は人の姿を取ることができるのです。だからあなたの今の姿は間違いなく本来
の姿。
あなたはずっとその姿で生活していたので実感が湧かないかもしれませんが、麒麟本来の姿
にも戻れますよ。
麒麟はこの世界に常に12人しか、存在しません」
「?」
「この世界には、国、王、麒麟がそれぞれ十二存在します。そしてそれぞれの国を一人の王がずっ
と治めます」
「ずっと?」
「ええ。王は選ばれると同時に仙になり、老いることも病にかかることもなくなります」
城之内が、息を飲んだ。仙、とは仙人のことだろうか。どちらにしろ、不老不死などおとぎ話でし
か聞いたことがない。
木更は言葉を続けた。
「他にも、国の中枢で働くもの達がいて、そのもの達はほとんどが仙です」
「ちょ、待ってくれよ」
話しについていけなくて、城之内がストップをかけた。
木更は言葉を止めて緩やかに微笑んだ。
「違いすぎて混乱しているのですね。けれど、それが、この世界の秩序なのです」
「・・・・・・」
城之内は一度黙ると、少し考えてからもう一度口を開いた。
「さっき、選ばれた王って言ったよな?そいつがずっと治めるなら、この世界が出来てからずっと
王は変わってない・・・?」
それは、不変とも思える悠久の刻。まるで物語のような。
けれども木更はそれを否定した。
「いいえ。王は変わります。王が道を失った時、王は必ず変わるのです」
「道を、失う?」
「人にも劣る行為。国の荒廃。王として立てなくなった時に・・・」
悲しげに木更は目を伏せた。
「そうしたら、新しい王が選ばれんのか。国民投票とかで?」
「いいえ」
そこで、木更は殊更綺麗な笑みを浮かべた。
「あなたが選ぶのですよ、景麒」
言葉と共に見つめられて、城之内は自分を指差した。
「お、れぇぇぇえええ!!??」
自分を指差したまま、ぱちくりと瞬く。
「ええ、麒麟が王を選びます。それぞれの国の麒麟が一人の王を。その決定は覆りません。
あなたは、慶の麒麟、慶の国氏「景」を名にいただく“景麒”です」
「な、何かの間違いじゃ・・・」
優しげながらも強い瞳に見つめられて、ざぁっと、頭から血の気が引いていった。聞くほどに離れ
ていく自分の日常。一瞬、今まで自分のいたはずの世界を遠く感じて、城之内は眉を顰めた。
実感も何もないのに、無理やりねじ込まれる現実に、眩暈がする。
駄目だ。
心で警鐘が鳴る。立っている位置すらあやふやで、それ以上どこにも行きたくないのに。
あの場所が、自分の居場所のはずなのに。
「お、れは・・・麒麟なんかじゃない」
人間であることを否定される日が来るなど、思ったこともなかった。冷たいものが胸を満たして、
そうして凝っていく。
人間ではない?
麒麟?
チガウ
そもそも、自分がここにいるのがおかしいのだと、その思いが胸を満たす。
見たこともない国、世界で、自分という矛盾がこうしてこの場にいることがおかしいのだと。
だから、早く戻らなければいけない。自分のいた、あの場所へ。
昨日、学校の帰りに別れた遊戯の顔が脳裏にちらついた。
「俺は、麒麟じゃない。日本へ帰るぜ」
殊更、自分にそう言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
けれども、その時勢いよく否定するように口を開いたのは、黙って木更と城之内のやり取りを聞い
ていたマナだった。
「いいえ!景麒は景麒です!!」
その言葉に、かっとしたように城之内が立ち上がる。机に勢いよくついた手がコップを転がして、
机の上に中身が広がった。
「けど!俺には城之内克也って名前だってちゃんとある!!
ドミノ高校に通っていて、この17年間、
一度だってこんな世界があるだなんてのも知らなかったんだぜ!!・・・信じられるかよっ」
最後は声が途切れ途切れに小さくなる。
くしゃりと、前髪を握る。僅かに長くなったそれが指の間から零れて、見慣れたのとは違うその色
に泣きたくなった。
変わってしまった外見。見覚えのない、金糸。
自分がいた場所を否定されて、知らない世界に突然放り込まれて、更には役目すら決められて。
今までの自分を全て否定されたようで。
自分はこれまでだって一人で必死に生きてきた。高校にだって自腹で通い、ようやく信頼する仲間
も出来て・・・そう、遊戯たちは今頃どうしてるだろう。
昨日笑顔で別れたばかりだった。明日新しいデッキを見てくれるように頼んで、なのに気が付いた
ら自分だけがこんな場所に連れてこられて。
考えないようにしていた不安が、一気に押し寄せてきた。
途中までとはいえ、木更の話を黙って聞いていられたのは、不安を押し隠すためだ。
本当は、目覚めた時からずっと不安だった。
「俺が、景麒だとか麒麟だとか、そんなのは関係ねぇ・・・。なぁ、俺は元の世界に帰れるんだ
ろ?」
平静を、保って口を開いた。
それでも視線が、机の上を彷徨う。
何より、今が不安だと思った。いや、怖いのだ。
「あなたは、こちらにいるべきなんですよ!?」
マナの声に唇を噛み締め、拳を握り締める。そうでないとみっともなく怒鳴りつけてしまいそうだ
った。
・・・俺は、この世界の者じゃない!!!
その時だ。
ふわり、と温度の低い手が、握り締めたままのその上に置かれた。
「城之内様・・・」
木更の声だ。不思議と、彼女の声を聞くと安心する。城之内は出来るだけ静かに、それでも大きく
息を吸い込んだ。
景麒、ではなく、わざわざ先ほど名乗ったばかりの名で呼ばれて、だから少し落ち着いた。
城之内は息を吐き出すようにゆっくりと、気持ちを言葉にした。
「俺の居場所はあそこなんだ。例えこの世界が俺のいるべき場所でも、俺は元の場所に帰るぜ」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。木更はただ黙って城之内の血管が浮き出るほどに握り締め
られた手を包み込んだ。
マナが何かを言おうと口を開く。
それを、木更が目線で止めた。小さく首を振られ、マナは悲しそうに目を閉じる。
「城之内様、部屋に戻りましょう」
城之内は、木更に連れられて一度も振り返ることなくその部屋を出た。

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