花の、香りがする。
寝台に横たわり、目を閉じた状態で、城之内はただそう思った。
自分の他に気配は一つだけ。
本当は一人にして欲しかったのだが、本当に一人になってしまうと思考が闇から抜けられなくなり
そうで、だから木更がその場にいても何も言わなかった。
ただ、沈黙を守ったままその場にいてくれることに、安堵を覚える。
花の香りが強くなって、寝台の横の机に、ことりと何かが置かれた音が響いた。
「何だ?」
目は開けずに問う。
木更は静かに答えた。
「花で作られたお茶です」
「・・・・・・」
そのまま、城之内は黙ってその場に横たわっていた。木更は何も言わない。
お茶を飲む気分ではなかったが、その香りはどこか心をリラックスさせてくれる。木更も、それが
目的だったのかもしれないとふと思った。
窓から流れた風が、城之内の金糸を緩やかに撫でていく。
大分時間が経ったあたりで、城之内は口を開いた。
「なぁ、俺は向こうに戻れるのか?」
「・・・戻ろうと、思えば」
悲しげに響いたそれはでも確かに肯定を示していて、だから城之内は驚いてその場に跳ね起きた。
「もど、れる・・・?」
木更は眉を寄せて、それでも答えた。
「はい」
「でも、こっちから日本に行けるのは木になってる時だけだって・・・」
「そうです。ただ、例外はあります。それが、麒麟です」
「・・・・・・」
「麒麟は、二つの世界を行き来できます。ただ、あちらの世界は麒麟にとって害にしかなりません。
あなたを見つけた時も、限界に近かった・・・」
木更はつらそうに目を伏せた。
限界。それは、城之内にも自覚はあった。
遊戯たちにはバイトのせいだと嘘を付いていたが、日に日に重くなる身体に、気付いてはいたのだ。
それは、何年もかけて蝕まれたように、刻々としかし確実に城之内の体力を削っていった。
城之内にはこちらに連れてこられた記憶はほとんどなかったが、激しい突風と、誰かが呼ぶ声を聞
いた時、すでに城之内は眩暈に耐え切れずに倒れていた状態だった。
「麒麟は、あちらの世界では長生きが出来ません。卵果の状態で流された麒麟は他にもいましたが、
発見が遅れ、死んだ麒麟も多いのです。
これだけの長い期間、あちらにいて戻ってきたのは、あな
たが初めてです」
「・・・・・・」
城之内は黙り込んだ。自身で限界だとは思っていたが、死の危険まで頭は認識していなかった。
「麒麟は、王を選び王を助け国を守ります。
王を選ばない麒麟は生きられて三十年前後と言われて
いますが、日本などでは環境の違いのせいか更に寿命は短く、三分の一とすら言われています。
ですから・・・戻ることは、出来ます。
でも、それはご自分の命を縮めることだということも、理解してください・・・っ」
木更は、つらそうに、それでも言い切った。
ふと、城之内は不思議になった。
マナと違って、木更はずっと自分を庇っている。王を選ぶという大任があると言ったその口で、日
本に帰る可能性を口にしている。しかも、それを止めるそぶりはないのだ。
ただ、覚悟をするように、と。それだけを口にして。
悲しそうに、それでも城之内が望む答えを口にしてくれる。
何でだろう。
「なぁ、なんで木更はそんなに俺のこと考えてくれるんだ・・・?」
疑問が、口から零れ出る。木更ははっとしたように顔を上げた。暫く逡巡して、そうして口を開く。
「・・・女怪は、麒麟一人に対し一人、生まれます。その麒麟を守り、育てるために」
城之内が息を飲んだ。木更は言葉を続ける。
「私は、景麒・・・いえ、城之内様のために生まれた女怪です。本来ならあなたが生まれる瞬間も、
見守るはずでした。ですが、大きな蝕(しょく)が起こって・・・」
「蝕?」
「大きな、嵐のようなものです。時空まで繋げてしまうような。
こちらから流されるのも、あちらから流されるのも、全ては蝕によるものです。蝕は人や麒麟を
流すだけでなく、里にも甚大な被害を及ぼします。
津波や、それ以外の自然災害を引きつれて。ですから、蝕は凶事とされています」
「それに、俺が巻き込まれた・・・?」
「そうです。ですから、城之内様がこちらをご存じないのも当然です。生まれてもいなかったので
すから」
「・・・何でそれで、俺だって分かるんだよ」
言いながら唇を噛み締めた。自分の存在を信じたくて、誰かに今の現実を否定してもらいたくて。
もし、自分が麒麟でなければ、こんなことにはならないはずだった。
でも、心のどこかではもう分かっている。
木更が口を開いた。
「私は、城之内様だけのために生まれました。私には分かるのです。
あなたを見つけられて、本当に良かった」
そのまま、木更の細まった瞳から涙が零れて、城之内は焦った。慌てて拭くものを探すが見つから
ず、仕方なしに自分の袖で木更の頬を拭く。
空より淡い色の瞳を静かに見つめられて、そこに浮かぶ感情の色に、胸が苦しくなる。
城之内は木更の瞳を静かに見つめて口を開いた。
「じゃぁ俺は、本当に麒麟なんだな」
それだけは受け止めなければならない事実のようで、城之内は目を閉じてその事実を受け止めた。
「はい」
「・・・俺がいなくなると、王はどうなる?」
「麒麟は、各国に一人。それは変わりません。城之内様が死ぬまで慶の麒麟は生まれず、逆に城之
内様が死ねば、新たに慶の麒麟が生まれます。
そして、麒麟が王を選ばねば、国は荒廃し、妖魔が現れます」
「え?」
妖魔という聞きなれない単語と、思っていた以上に深刻な話に、城之内は瞠目した。
「この世界には、天帝がいます。全ての秩序は天帝によって決まりました。その定めによると、王
を選ぶのは麒麟のみ。
また、王がいることで天災を防ぐことが出来ます。そして王がいなくなると数々の天災が国を襲
い・・・」
「・・・国は、荒廃する」
「そうです」
国が荒廃し、妖魔が現れるようになれば、当然民にも影響が出る。
信じられないくらいの人が、命を落とす。
けれど。
木更は唇を噛み締めた。いきなり重大な役割を課せて、目の前の少年は混乱しているだろう。
帰りたいと、思う気持ちは分かる。
城之内の肩にかかった。数え切れない命。それは城之内の、今まで知らなかった・・・いや、知る
必要すらなかった民の命だ。
「城之内様、選ぶのはあなたです。ですが、日本に帰れば、命を縮めることになるでしょう」
目を瞠ったまま、動きを止めた肩に、木更は手をおいた。
僅かな震えが、暫くして伝えられる。それでも城之内は拳を握り締めて、顔を上げた。
その瞳に映る感情を見て、木更ははっと瞠目した。
そこに浮かぶのは、痛みと・・・慈愛・・・?
「違う、だろ?」
震える声は痛々しくて、木更は肩に置いた手に、ますます力を込めた。
彼の瞳を見て、言おうとしていることが、分かってしまった。
震える、声。
それでも彼は―――――
「・・・考えるべきなのは、俺のことじゃねぇ。それより、俺がいないと国が荒れるんだろ!?
人が・・・死ぬんだろ?」
苦しげに、城之内の眉が眇められる。ああ、と木更は思った。
やはり、優しい人。
一目見た時から分かっていた。麒麟は、慈悲の生き物だと言われている。人を愛し、慈しみ、全て
のものが傷つくことを恐れる。
けれど、木更の目に映る城之内は・・・麒麟だから、というだけではなく。真っ直ぐで、優しく
て・・・他人のために自分を犠牲にしてしまいそうで、少し怖いとすら思ったのだ。
きっと、今までそうして生きてきたのだろうと分かるから。
その優しさが、彼を苦しめ、傷つけ、殺してしまうのではないか、と。
現に、彼は今も想っている。
・・・・・・見たこともない、今まで知ることすらなかった、慶の民のために。
「城之内様・・・・・・」
この心優しい少年に、何を言えばいいのだろうか。
木更は震える細い肩を抱きしめた。
他に言葉が浮かばなかったから。
ただ、少しでも彼の震えが納まるように、と。
まだきっと、震えは止まらない。
どうか。どうか。どうか。
抱きしめることしか出来ないまま、木更は心の中で何度も願う。
彼が傷つかないように。苦しまないように。・・・自分自身の幸せを、望めるように。
けれど。
―――――震え続ける細い肩を、木更はどうすることも出来なかった。

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